2026年9月2日
【2026年9月号】円を買えても、買われる国はつくれない ── 8月の激動が突きつけた構造転換の現実
円を買えても、買われる国はつくれない ── 8月の激動が突きつけた構造転換の現実
皆様はこの夏をどのようにお過ごしでしたでしょうか。
記録的な猛暑や台風、相次ぐ地震への警戒など、自然の厳しさに気を揉まれた方も多かったのではないかと思います。8月が終わりを告げ、秋の気配が混じり始めるこの時期、ふと世の中の空気が変わりつつあるのを感じていらっしゃるかもしれません。
経済に目を向けても、この8月は息つく暇のない激動の1か月でした。過去最大規模の日米協調介入を経てもなお下げ止まらない円相場、災害が引き起こす供給制約、米国で表面化した政策の軋み、「ドル離れ」と金の高騰、そしてAIへの圧倒的な資本集中――。
一見バラバラに飛び込んでくるこれらのニュースも、視座を上げて俯瞰すると、すべて「これまで機能してきた仕組みに応急処置を重ねるだけでは、もはや追いつかない」という一本の太い幹でつながっていることが見えてきます。
第1章 自然災害と実需の円売り ―― 供給制約が招く「構造的インフレ」
これまで「突発的な不運」として片付けられがちだった自然災害は、いまや物価の前提を揺るがす恒常的なリスクへと姿を変えています。豪雨や地震はサプライチェーンの寸断や農産物・資材の供給不足を招き、直接のコストプッシュ要因となる。気候変動による減産や復旧に伴う人手不足は一時的な現象にとどまらず、社会全体のコスト構造を底上げする「構造的インフレ」の引き金となっています。
この供給制約に拍車をかけているのが、為替市場における「実需の円売り」の再燃です。
財務省によれば、7月30日から8月26日までの為替介入実績は15兆3,993億円。月次公表ベースで過去最大です。年間累計は27兆円を超え、通年で最大だった2024年の約15兆円を年の途中ですでに倍近く上回りました。しかも今回は日本単独ではなく、7月31日には日米当局が協調して円買いに動いています。約28年ぶりのことでした。
それでも、一時1ドル=155円台まで戻した相場は、足元で再び159円台後半へ押し戻されています。
「為替介入は『円を買う』ことはできても、『円が買われる国』をつくることはできない。」
エネルギーや食料を海外に頼る日本は、いくら国費で介入しても実需の円売り圧力を相殺しきれません。国内でも、信用金庫の債券含み損が急膨張し2026年3月期に17信金が最終赤字へ転落するなど、金利上昇に伴う移行痛が現実化しています。
減税や給付金は痛みを一時的に麻痺させる「痛み止め」であっても、供給能力や通貨の信認を立て直す処方箋にはなりません。いま問われているのは、「対症療法なのか、構造そのものの再設計なのか」という選択です。
第2章 帰ってこない39兆円 ―― なぜ円は買われないのか
では、なぜ15兆円もの国費を投じても、円は買われないのでしょうか。その答えは、日本の「稼ぎ方」が静かに変わったことにあります。
2024年、日本の経常収支は28.7兆円の黒字で、過去最大を記録しました。対GDP比で4.5%。数字だけを見れば、円が買われてもおかしくありません。
しかし、その中身を開けると景色が一変します。黒字の実体は第一次所得収支の39.7兆円、すなわち過去に海外へ投じた資本から生じる利子と配当です。これを除けば、日本の経常収支は11兆円の赤字になります。
そして最も重要な点は、この39.7兆円の多くが円に戻ってきていないことです。統計から推計すると、第一次所得収支の7割弱が外貨のまま海外に留まっているとみられます。海外子会社が現地で稼いだ利益は、現地で人を雇い、設備を建て、次の投資へと回されていく。会計上は日本の黒字として計上されますが、為替市場では1円も動いていないのです。
理由は三つあります。成長する市場が海外にあること。支払いも現地で発生する以上、現地通貨で持つほうが合理的で、円に換えることのほうがかえって為替リスクを生むこと。そして日本の政策金利が1.0%、米国が3.5〜3.75%という現実です。円に戻した瞬間、利回りが落ちる。
これは企業だけの話ではありません。投資信託を通じた個人の外国株買いは、足元で10年ぶりの高水準圏にあります。企業も家計も、同じ判断を同じ方向に下している。政府が国費で円を買う、まさにその裏側で、私たち自身が毎月着実に円を売り続けている――これが、15兆円が1か月で溶けた理由です。
第3章 ドラッケンミラーの警告 ―― 「市場と戦うな」
対症療法に頼る危うさは、海外でも同様です。
米国では、インフレ抑制のため高金利を維持したいFRBと、長期国債の買い入れ(バイバック)で金利を人為的に抑え込もうとする財務省との間でスタンスのズレが生じています。連邦政府債務が40兆ドルを突破する中での買い支えには、市場から「一時しのぎだ」と厳しい批判が相次ぎました。
本質は「市場と戦うな」の一点です(伝説的投資家であるスタンレー・ドラッケンミラー氏)。問題は金利上昇そのものではなく、それを押し上げている財政赤字やインフレという構造にある。為替介入もバイバックも、体温計の目盛りを指で押し下げる応急処置に過ぎません。
第4章 地政学リスクとAIの地殻変動 ―― 「前提」が書き換わる世界
国際秩序と産業のルールもまた、これまでの当たり前が音を立てて崩れています。
米国の対イラン制裁強化に対し、取引国は人民元決済や独自ルートの開拓を進め、金価格が高騰するなど世界的な「ドル離れ」が再燃しています。国際刑事裁判所(ICC)の日本人所長に米国が制裁を科すなど、法の支配という枠組みすら揺らいでいます。
その一方で、世界の資本はAIを中心とする「新しい産業基盤」へ一極集中しています。米AI新興アンソロピックの新規上場(IPO)では投資家が2兆ドル(約320兆円)超の企業価値を見込むと報じられ、世界の富と最先端技術、電力インフラは旧来の枠組みを飛び越えて再編されつつあります。
世界は古いルールを守るための対症療法を捨て、新しいゲームの構造へと猛スピードで舵を切っています。
第5章 「在任期間の延命」を超えて ―― 持続可能な次世代型戦略へ
なぜ、政策決定者や既存のシステムは対症療法を繰り返してしまうのでしょうか。
それは、多くの政策が「自らの在任期間中や次の選挙さえ乗り切ればよい」という近視眼的な時間軸で設計されているからです。痛みを伴う構造改革を先送りし、国債の買い支えや給付金、為替介入といった痛み止めを打ち続ける。しかし、その場しのぎのツケは確実に次の時代へ積み上がります。
円安になったから慌てて外貨を買う、下がったから狼狽して手放すという後追いの行動もまた、個人レベルの対症療法です。目指すべきは目先の波を当てにいく手法ではなく、10年、20年、次世代へと富を機能させ続ける「持続可能な次世代型戦略」でしょう。
まずは相場変動や政権の延命策に左右されず、世代を超えるスパンで購買力を守り抜く長期の骨格へと時間軸を再設定すること。そしてインフレ、通貨安、地政学ショックのいずれが顕在化しても資産全体が機能不全に陥らないよう、外貨・実物資産・流動性を多重に組み込んだ多通貨ポートフォリオを構築することです。
さらに、補助金で延命される古い産業にとどまるのではなく、国家が推進する情報通信の重点「17分野(海底ケーブル、AI、次世代通信、サイバーセキュリティなど)」のように、世界中の民間資本が自律的に集まり続ける領域へ目を向けることも、長期の成長を取り込むうえで一つの視点となります。
さて、激動と不確実性が高まる中、かつての対処療法にすがり続けるか、変化をしなやかに受け入れ、本質的な価値と持続可能性を追求する道を選ぶか。
実りの秋を迎える今、皆様の資産構造を見つめ直すのに相応しいテーマではないでしょうか。
IFA(独立系金融アドバイザー) 園田 悠子

