2026年8月3日
【2026年8月号】人気は移ろい、実力は残る ―― 波乱の7月に確かめたこと
人気は移ろい、実力は残る ―― 波乱の7月に確かめたこと
序章:世界で最も重い「やることリスト」
「今日やること」。皆様も手帳やスマホの隅にお書きになるでしょう。牛乳を買う、書類を出す――。7月30日、ワシントンの閣議室では、世界で最も重い「やることリスト」が書かれていました。ロイターのカメラが捉えたベッセント米財務長官の手元のメモ。走り書きでこうあります。「To Do:Buy Japanese Yen(円を買う)50億〜100億ドル」。世界一の経済大国の財務長官がやることの筆頭が、円買い。メモの一行が、世界の為替市場を動かそうとしていました。
実際、このメモは絵空事では終わりませんでした。この7月、日経平均は月間5700円安(8%)の暴落から月末に2494円高の急反発。為替では6〜7兆円の円買い介入、熊本では震度7の地震、永田町では消費税減税論。盛りだくさんの一カ月を、今月は私の信条の物差しで読み解きます。式にすればこうです。株価 = 実力(基数)× 人気(係数)。実力とは売上と利益を生む稼ぐ力、つまり掛け算の元になる数。人気とは市場の期待と気分、つまり元の数に掛かる倍率です。掛け算ですから、一方がゼロに近づけば積もゼロに近づく。この単純な算数が、7月のすべてを貫いています。
第1章:日米共同介入 ―― 行き過ぎた円売りとの攻防
まず為替から。30日夜、政府・日銀は円買い介入を断行。翌31日も実施し、162円台後半だった円は一時157円20銭まで急伸しました。驚くのはその後です。米財務省の指示を受けたニューヨーク連銀が、日本に合わせてユーロ売り・円買いの介入に踏み切ったもよう。日米が実売買を伴う介入で足並みをそろえるのは、1998年の金融危機や2011年の東日本大震災以来の異例中の異例です。
この3日間は、さながら日米合作の舞台でした。30日夜にベッセント氏が「円は非常に過小評価されており、極めて安い」と口火を切り、31日には三村財務官が「米当局からは単なる精神的支援を超える支援を得ている」と応じる。極めつけは8月1日未明、日本の財務省が「米国債を担保に米当局からドル資金を調達する手段がある」とXに投稿し、介入原資の限界を見透かした円売りを先回りで封じました。今年の円買い介入は計18兆円規模と、早くも年間の過去最高を更新しています。
通貨の値段も、人気×実力で決まります。円安の土台は日米金利差という「実力」の差ですが、そこに投機筋の円売りという「人気」の行き過ぎた下落が上乗せされていました。「円は非常に過小評価」というベッセント氏の言葉は、実力対比で人気が下がりすぎだという主張にほかなりません。介入が狙い撃ちできるのはこの行き過ぎの部分だけで、金利差の構造が変わらない限り円は戻りきらない。日米総力戦で買ったのは時間。その時間で実力をどう立て直すかが本当の勝負です。
第2章:Kimi K3の衝撃 ―― 安く配られる「実力」
さて、舞台を為替から株式市場へ移しましょう。7月の株安の震源はAI・半導体でしたが、その裏で静かに進んでいたのが、中国発の「実力の価格破壊」でした。
主役の顔ぶれから。米経済の看板は、GAFAM一強から「MANGOS」併記の時代へ――SNSのメタ(M)、生成AIのアンソロピック(A)、AI半導体のエヌビディア(N)、検索のグーグル(G)、チャットGPTのオープンAI(O)、宇宙開発のスペースX(S)。AIを作り、動かす企業群が経済の主役に躍り出ました。そしてそのMANGOSの牙城に、東から挑戦者が現れます。
中国ムーンショットAIの新モデル「Kimi K3」。ウェブ開発の性能テストで、MANGOSの一角・米アンソロピックの最先端モデル「フェイブル」を上回りました。少ないGPUで効率的に性能を高め、日本のエンジニアからも「アンソロピックのAIの代替として十分使える」という声が出ています。
もちろん実力にはまだ差があります。大規模システム開発のテストでは米最先端モデルを下回り、応答速度も2〜3倍の時間がかかる。追いついたとは言えません。
しかし、注目すべきは売り方です。第一に価格。1問あたりのコストはフェイブルの約4分の1。第二に、7月27日にモデルの中身を公開し、企業が自前のサーバーにダウンロードして動かせるようにしました。データを中国企業に渡すことをためらっていた企業も、手元で動かすなら安全とみなしやすく、米欧の事業者が即座に提供を開始。日本企業も検討に入っています。自社のGPUが乏しくても他人の計算機で一気に普及させ、外部売上2000万ドル超の企業からライセンス料を取る。「利用者を広げて、将来ライセンス料をもらうのが中国のビジネスモデル」(野村総合研究所)です。対抗して米オープンAIは企業向け料金を最大8割引き下げました。
掛け算の物差しに載せると、構図が見えます。MANGOSは人気も実力も最高水準ですが、その実力を借金で買っている。4〜6月期、米テック4社は投資が本業の稼ぎを超えて15兆円の現金が流出し、長期借入金は1年で2.4倍。高い値段で実力を積む米国に対し、中国勢は「そこそこの実力を、圧倒的に安く配って広げる」戦略で人気を取りにきた。価格競争が本格化すれば巨額投資の回収シナリオは狂います。7月にAI・半導体株が8%も売られた本当の理由は、この足音だと私は見ています。折しも米国ではデータセンター建設への反対が賛成の倍に達し、「恩恵なき熱狂ではないか」との疑念が中間選挙の争点になりつつある。技術の実力と、社会の支持という人気。AIは両方を同時に問われ始めました。
もう一つ、日本に関わる大きな動きを。MANGOSの筆頭格・エヌビディアのフアンCEOが7月15日に来日し、東京・秋葉原の壇上でこう語りました。「セガがいなければ、今のエヌビディアは存在しない」。1995年、開発失敗で倒産寸前だった同社に、セガの入交昭一郎氏は約500万ドル(約5億円)の支援を決断。技術の失敗ではなく「人」を見たその信頼が、30年後に時価総額世界一・約800兆円の企業を育てました。壇上には入交氏本人の姿も。フアン氏は「今こそ日本の時代」と語り、ロボットを動かす次の主戦場「フィジカルAI」の舞台に日本を選択。ソフトバンクやソニー、ホンダなど44社が参画する国産AI連合「Noetra(ノエトラ)」も始動しました。実力を信じた5億円が世界一を生んだ過去と、ものづくり日本の実力に世界の人気が向かう現在。この物差しをこれほど鮮やかに体現する話はありません。
第3章:消費税減税 ―― 賞味期限つきの人気
永田町では、食料品の消費税率を1%へ引き下げる案が動き出しました。規模は年5兆円。家計には朗報です。
しかし掛け算の物差しでは、こう見えます。減税は「短期的な人気」を買う政策です。財源の根拠は乏しいまま、赤字国債に頼れば、財政という国の「実力」を削って人気を買うことになる。企業でいえば借金で配当を増やすようなものです。債券市場という計量器は、長期金利のじわりとした上昇でそれを静かに測り始めています。金利が上がれば国債の利払いが膨らみ、その負担は将来の増税や行政サービスの目減りという形で国民に戻ってくる。目先の人気取りの代償が、いずれ国民自身の実力を削る――財源なき減税の本当のコストは、この循環にあります。政権の胆力が試されるのはこれからです。
第4章:熊本の試練 ―― 実力の抜き打ち検査
そして熊本を最大震度7の地震が襲いました。9200人が避難し、7万2000戸で断水。猛暑の中で不便を強いられる方々に、心よりお見舞い申し上げます。
投資の文脈で天災を語ることには慎重でありたい。それでも申し上げれば、災害は実力の抜き打ち検査です。世界のマネーが日本の半導体・素材に集まるいまだからこそ、「震度7でも供給網を立て直せる」復旧の実績が、日本への長期の信頼を支える実力になる。防災力もまた、資本主義における競争力です。
結び:持続可能なものは、すべて実力がある
7月を振り返って、あらためて思います。係数(人気)はニュース一本、メモ一枚で日々動きます。しかし基数(実力)は、決算ごとにしか動かない。係数を追いかけるのが投機で、基数が積み上がる場所に腰を据えるのが投資だ、と言い換えてもよいでしょう。GAFAMが健在のままMANGOSへ脚光が移っていくように、人気の主役は移ろいます。ITバブルで消えた企業も財源なき減税も、係数だけが膨らんで基数が伴わなかった点で同じでした。
裏を返せば――持続可能なものは、すべて実力がある。値上げできるニッチトップの製品力。震災のたびに立て直してきた日本企業の復元力。そして安くても着実に性能を積むKimi K3のような挑戦者すら、その持続力の源は人気ではなく実力です。30年前、倒産寸前のエヌビディアに5億円を託した入交氏が見ていたのも、株価ではなく、フアンという人の実力でした。
私たちの資産運用も同じです。人気で買われた資産と実力で買われた資産を仕分けること。通貨の分散を怠らないこと。震度7の月だからこそ、生活防衛資金と保険という「家計の実力」を点検すること。株価は人気×実力で決まる。そして、やがて実力のある企業のみが生き残っていくようにできているのが、資本主義経済です。今月もまた、ジェットコースターのような一カ月になるかもしれません。それでも、動じることはありません。実力という錨さえ下ろしていれば、船は流されない。今年の後半戦も、ご一緒に歩んでまいりましょう。
IFA(独立系金融アドバイザー) 園田 悠子

